第53代NWA世界ヘビー級王者“アメリカンドリーム”ダスティ・ローデス。
1979年8月にフロリダはタンパでハーリー・レイスからNWA世界タイトルを奪取したのがダスティ・ローデスだった。既にディック・マードックとのタッグ、テキサスアウトローズとしてトップレスラーの地位を得ていたローデスだったが、そこから配管業者の息子がプロレスラーとして檜舞台に立ち成功する、といういわゆる“アメリカの夢”を新キャラと共にシングルプレーヤーとしてイメージチェンジに成功すると、文字通り自らの夢だったNWA世界タイトル奪取に邁進する。
ただ必殺のバイオニックエルボーとコミカルなパフォーマンス以外余り取り柄のないレスラーだったローデスはNWA世界チャンピオンの重責は荷が重く、周囲の予想通り、1週間後にレイスとのリターンマッチに破れ王座から転落する。
この前王者と新王者が短期間で王座移動を繰り返すパターンを流智美さんが“タイトルのキャッチボール”と評したが、龍熱もそれは的を得た指摘と認めざるを得ません。それに加えて、ジャイアント馬場さんが全日本プロレスのエースだったため長期の海外サーキットに出れない=1週間王者も致し方ない、との免罪符があったのに対して、アメリカマットを主戦場にしているローデスが僅か1週間でタイトルをレイスに奪い返された事は明らかにローデスに長期に渡ってNWA世界チャンピオンを務めるだけの資質もモチベーションもなかったと言わざるを得ないのである。
またレイス自身もローデスとのNWA世界王者争奪戦について「ローデス?アイツはただのクラウンチャンピオンさ。それが証拠にローデスが何日ベルトを持っていた?ほんの数日だ。NWAチャンピオンとして俺やドリーとローデスを比べられるのは不愉快だ!」と吐き捨てている。結局、ダスティ・ローデスは3度に渡りNWA世界チャンピオンの座に着くがいずれも短命王者に終わっている事から、このレイスのコメントが的を得たものである事は明白である。
しかしこのダスティ・ローデスのNWA世界王座奪取に狂喜したファンがいた。
そう、新日本プロレスのファンである。長きに渡りジャイアント馬場の企業戦略により、アントニオ猪木のNWA世界王座への挑戦は困難だったが、新王者ローデスが新日系の外人レスラーだった事もあり、新日ファンは「これでローデスvs猪木のNWA世界戦が実現するぞ!」と大いに期待に胸を踊らせたのだ。
またローデス自身も「ニュージャパンに行ってイノキの挑戦を受ける。もしオールジャパンから来日オファーが来たらタイトルを返上するぜ!」と調子に乗ったコメントを出し、またまた新日ファンを喜ばせた。しかしこのローデスの無責任コメントに怒りを露わにしたのが馬場だった。
馬場は「ローデスは何か勘違いをしているな。NWA世界チャンピオンになったら個人の希望ではなく、NWA本部が決めた前王者の防衛戦スケジュールをそのまま引き継ぐんだよ。ローデスが勝手に新日に行く事なんか許されるわけがない。それにだな、タイトルを返上してまでウチに来たくないなんて言ってるチャンピオンなら来て貰わなくて結構だ!」と厳しいコメントを出している。
そして馬場は目障りなアントニオ猪木率いる新日本プロレスにさらなる強烈な打撃を与えるためには、自分がもう1度世界最高峰のNWA世界ヘビー級チャンピオンになるしかない!との決意を固める。
こうして静かなる闘志ことジャイアント馬場はローデスを破りNWA世界王者に返り咲いていたハーリー・レイス招聘に動き出すのだった!
53rd NWA world heavy weight champion American Dream Dusty Rhodes.