「死亡遊戯」最初で最後の真実⑥。
さあ、無事再開となった当連載企画ですが、今回は「死亡遊戯」と当時嘉禾公司のトップ女優だった苗可秀の関係について検証してみたいと思います。
一説には既に1974年の10月には完成に向けて撮影が再開されたと言われる「死亡遊戯」プロジェクトは、この時まだヘアスタイルが長髪(!)だった呉思遠がプロジェクト・リーダー、アクション監督に林正英、そしてスカウトされたばかりの金泰靖という布陣で韓国でロケーションを行っています。
そう、ここからもこの時期の「死亡遊戯」プロジェクトは、リーさんが遺した原案に忠実に沿った形での作品完成に奮闘していた事が判ります。
1975年の10月に本格的に制作が始まった最初の「死亡遊戯」プロジェクトは、私たち「死亡遊戯」信者からは「死亡遊戯」75年バージョンと呼ばれていますが、ここで苗可秀ことノラ・ミャオの出演がスケジュールに組み込まれる事になったようです。
ところがアクション監督の林正英が「いや、苗可秀の出演シーンは既に撮影済み(!)なんだ。それよりも田俊や他の出演者の五重塔内での撮影(!!)の方が重要だ!」と主張し、ノラさまの出演シーンの撮影は見送られました。(うう~ん???)
さらに注目なのが、この後に林正英と金泰靖は「死亡遊戯」の1シーンとして空港とレストラン(!)のシーンを撮影し「死亡遊戯」75年バージョンは撮影を終了したとの事です。(うう~ん???)
生前の金泰靖の証言によると「この時期の林正英は何時もイライラしていて、何か個人的に“問題”を抱えている様子だった」との事です。
「死亡遊戯」のアクション監督は、この後林正英からサモ・ハンへと交代する事となりますが、この林正英こそ「死亡遊戯」撮影再開初期から殆ど全てのプロセスを知る人物だった事は明らかで、以前に某映画祭のゲストで林正英が来日した際にどのマスコミも林道士に「死亡遊戯」に関して問い質さなかった事が実に悔やまれます。(私はこの当時はまだ映画業界の道に入っていませんでした)
さて、ノラさまの「死亡遊戯」出演に関してですが、私は以前にノラさまが来日した際にノラさま本人に直接この件を問い質しています。
ノラさま曰く「ブルースの「死亡遊戯」に私が出演する予定だったかって?ええ、確かにそういうオファーはあったわね。どういう役柄だったか・・・さあ、あまり詳しくは覚えてないけど、家族が誘拐されて、それをブルースが助けにいく、って話だったと思うわ」との事でした。恐らくノラさまの役柄はハイテイエン(リーさん)の妹か家族だったと思われますが、こうなって来ると生前の林正英が語った「死亡遊戯」75年バージョン制作前後に“撮影済み”と言われるノラさまのお蔵入りフッテージの行方がマジで気になりますねえ(ー_ー)!!
様々な試行錯誤を経ながら数々の映像が撮られてはお蔵入りし、また撮られてはお蔵入りを繰り返したと思われる「死亡遊戯」75年バージョン。
その過程で密かに撮影されたと言われる苗可秀の出演シーン、その「最初で最後の真実」の答えを知り得るのは、このリーさんのオフィスでリーさんから渡されたイエロー・ヌンチャクを手に愛くるしい笑顔を見せるノラさまのスチール写真なのかも知れません。いつ何時、そして何時までも「死亡遊戯」の話ができる!!
「死亡遊戯」最初で最後の真実⑦。
さあ、後半に向かってスパートをかけるべく、ここからはいよいよ生前のリーさん自身が撮影した「死亡遊戯」の五重塔内ファイト・シーン、そして新界野外ロケの“最初で最後の真実”に迫っていきたいと思います。
まずは写真からも判るように、五重塔の1階を守る“キックの達人”には韓国合気道の猛者である黄仁植が予定されており、実際に黄師範の名前はリーさんの「死亡遊戯」の設定スケッチにも記載されていました。
五重塔の1階エリアは塔の挑戦者を迎え討つ最初の難関、言わば“防波堤”であり、恐らくは5人の挑戦者(錠前屋の李昆は除く)の内、劉永か黄家達がこのリーさんのキックに勝るとも劣らない強烈な蹴り技を誇る黄仁植にこの1階で倒される事になるのでしょう。
ただ当然ハイテイエン(リーさん)が黄仁植と最終的には対決する事となり、その2人の闘いの隙を見て田俊や解元が塔の2階でターキー木村演じる螳螂拳の達人が守る“豹殿”に駆け上がっていく、そんな展開が描かれたと想像出来ます。
ここで未確認情報ながら、この五重塔の1階におけるハイテイエンvs黄仁植の対決に関して「死亡遊戯」のプロジェクト・リーダーだった林正英が語ったとされる大変興味深い情報があります。
それはこの1階を守る黄仁植の役名(!)はソーチュン・キムで、ハイテイエンはこのキムの猛攻を浴びて殆どの聴覚を失ってしまう(!!)ほどのダメージを負うそうです。つまり、キムを倒してからのハイテイエンは、自分が徐々に聴覚を失いつつある事を狡猾な田俊や単細胞の解元ら他の挑戦者に決して悟られないよう注意しながら、その後も五重塔での闘いを強いられる、という展開になるわけです。
確かに3階以降のフロアでハイテイエンの右の頬に打撃による痣が確認できますし、これがソーチュン・キムによる蹴りのダメージなのかも知れません。
ただ実際に撮影された映像を観ると、ハイテイエンは塔の5階である“未知の恐怖”のフロアでさえジャバールと思い切り舌戦を展開しているので(^。^)、私はこのハイテイエン=難聴者の設定はちょっと厳しいかと思います。
そうは言いながらも、林正英は生前のリーさんに大変信頼されていた武師だった事は事実で、林正英が「死亡遊戯」75年バージョン制作中にリーさんのオリジナル原案にそれこそ執拗に拘り奮闘する余り、そのような一見強引に感じられる設定が生み出されたのかも知れません。
そのリーさん原案プロットに異様(?)なほど忠実な「死亡遊戯」を作ろうと試行錯誤した林正英に対して、同じくリーさんの原案プロットに深い敬意を払いながらも、さらにそこに観客が求めるダイナミックかつハイレベルな“猛龍アクション”を加味する事で自分なりのリーさんへのリスペクトを打ち出し「死亡遊戯」完成を目指したのが林正英から後任アクション監督を引き継いだサモ・ハンでした。
まずサモ・ハンは金泰靖vs王虎の“温室の決闘”を撮ると、続いてリーさんの原案プロットを基に五重塔の1階を想定した金泰靖vs黄仁植戦を撮り、最後に78版「死亡遊戯」のために金泰靖vsボブ・ウォールの“ロッカールームの決闘”を撮り上げます。そう、ブルース・リーが遺した「死亡遊戯」は呉思遠、林正英ら何人かの優れた人材を経て、満を持して参加した“猛龍アクション、最後の継承者”サモ・ハンの尽力により、いよいよ世界中の観客が待ち焦がれた大スクリーンに映し出される瞬間を迎えようとしているのでした!!いつ何時、そして何時までも「死亡遊戯」の話ができる!!
「死亡遊戯」最初で最後の真実⑧。
1972年の9月中旬。香港に到着したダン・イノサントはその足でいきなりリーさんの自宅に連れて行かれます。
そのリーさんの自宅で旅の疲れを癒す間もないイノサントを待っていたのは、ウ・グァンとのカリ・スティックを使って延々と続くトレーニングでした。疲れ切った表情で練武を続けるイノサントを尻目に、リーさんは自宅のベランダから2人をビデオ撮影しながら「ダン、さあ、もう1回だ!オジャ!オジャ!オジャアア!」と、1人ご機嫌で怪鳥音を叫び続けるのでした(^_^;)。
そしてこのイノサントとウ・グァンの練武こそ、リーさんが翌月に新界での野外撮影を予定していた意欲作「死亡遊戯」で五重塔を守る番人たちのデモ映像の予行練武だったのです。
この新界での「死亡遊戯」のデモ映像では、黄仁植が自分を取り囲む戦闘員を豪快な連続廻し蹴りで蹴りまくるシークエンス。ダン・イノサントがウ・グァンをカリ・スティックで撃退するシークエンス(このシーンとリーさん自宅ベランダから撮った映像とカメラ・アングルが同じ点に注目)。そして池漢載が黄仁植&戦闘員を投げ飛ばすシークエンス、とそれぞれ3つのファイト・シーンが撮影されました。
残念ながら、現在この3人のデモ映像は「ブルース・リーの神話」で断片的に観る事が出来るだけで、その全貌は今だに解明されていません。
私は00年にダン・イノサントにインタビューした際に、この「死亡遊戯」の新界野外ロケについて細かく訊いているんですが、イノサント曰く「確か撮影は10月(正確には10月4日)だったと思うけど、あの撮影は私たち塔を守る格闘家のデモンストレーションとして撮ったんだよ。だからブルースと私のファイト・シーンも映像ではなく、スチール用のポーズ写真だけだったと思うよ」との事でした。
恐らくこのイノサントの証言は事実で、写真のように長年に渡り私たちリーさん信者が待ち望んでいたヌンチャクを手にしたリーさんとイノサントが闘う、といったシークエンスが当日現場で映像として撮影された可能性は低いと思います。
ただそれでもリー監督が現場に立ち会い撮影したこの「死亡遊戯」新界野外映像、「死亡遊戯」信者としては何としても観たい!との思いは当たり前(田のクラッカー(^。^))なわけで、ではその映像は現在何処にあるのか?
06年に発掘された「死亡遊戯」のマスタープリントは約110分ほどの映像だと思われますが、それは五重塔内の3つのフロア(“虎殿”の丸太戦映像含む)の撮影済み映像だと思われます。
では新界野外ロケのフィルムは何処に保管されているのか?一つのヒントとして、00年にアートポートが「GOD」を制作する過程で、A社の関係者が当時メディア・アジア社のフィルム倉庫で何本ものフィルム缶をチェックした際に、それら嘉禾公司作品のフィルムの巻末にアンジェラ・マオこと茅瑛のNGフィルムが無造作に収められているのを確認していたそうです。
そこから考えるに、新界野外ロケの撮影済みフィルム(時間にしてもそれほど長時間ではないはずで、恐らくはNG込みでも10分程度)も、きっと「死亡遊戯」関連映像フィルムの巻末に収められたまま、今日まで長い年月を過ごしている可能性が高いと思われます。
ブルース・リー監督が撮影した「死亡遊戯」の映像は、五重塔内の3つのフロアと新界野外ロケ映像が合わさって、初めて“コンプリート”となるのです。
そう、何時の日か必ず、緑深い草原で五重塔の番人たち3人が披露する“達人たちの武闘会”が私たちの眼前に現れる日が来る事を強く信じたいと思います。
いつ何時、そして何時までも「死亡遊戯」の話ができる!!
さあ、無事再開となった当連載企画ですが、今回は「死亡遊戯」と当時嘉禾公司のトップ女優だった苗可秀の関係について検証してみたいと思います。
一説には既に1974年の10月には完成に向けて撮影が再開されたと言われる「死亡遊戯」プロジェクトは、この時まだヘアスタイルが長髪(!)だった呉思遠がプロジェクト・リーダー、アクション監督に林正英、そしてスカウトされたばかりの金泰靖という布陣で韓国でロケーションを行っています。
そう、ここからもこの時期の「死亡遊戯」プロジェクトは、リーさんが遺した原案に忠実に沿った形での作品完成に奮闘していた事が判ります。
1975年の10月に本格的に制作が始まった最初の「死亡遊戯」プロジェクトは、私たち「死亡遊戯」信者からは「死亡遊戯」75年バージョンと呼ばれていますが、ここで苗可秀ことノラ・ミャオの出演がスケジュールに組み込まれる事になったようです。
ところがアクション監督の林正英が「いや、苗可秀の出演シーンは既に撮影済み(!)なんだ。それよりも田俊や他の出演者の五重塔内での撮影(!!)の方が重要だ!」と主張し、ノラさまの出演シーンの撮影は見送られました。(うう~ん???)
さらに注目なのが、この後に林正英と金泰靖は「死亡遊戯」の1シーンとして空港とレストラン(!)のシーンを撮影し「死亡遊戯」75年バージョンは撮影を終了したとの事です。(うう~ん???)
生前の金泰靖の証言によると「この時期の林正英は何時もイライラしていて、何か個人的に“問題”を抱えている様子だった」との事です。
「死亡遊戯」のアクション監督は、この後林正英からサモ・ハンへと交代する事となりますが、この林正英こそ「死亡遊戯」撮影再開初期から殆ど全てのプロセスを知る人物だった事は明らかで、以前に某映画祭のゲストで林正英が来日した際にどのマスコミも林道士に「死亡遊戯」に関して問い質さなかった事が実に悔やまれます。(私はこの当時はまだ映画業界の道に入っていませんでした)
さて、ノラさまの「死亡遊戯」出演に関してですが、私は以前にノラさまが来日した際にノラさま本人に直接この件を問い質しています。
ノラさま曰く「ブルースの「死亡遊戯」に私が出演する予定だったかって?ええ、確かにそういうオファーはあったわね。どういう役柄だったか・・・さあ、あまり詳しくは覚えてないけど、家族が誘拐されて、それをブルースが助けにいく、って話だったと思うわ」との事でした。恐らくノラさまの役柄はハイテイエン(リーさん)の妹か家族だったと思われますが、こうなって来ると生前の林正英が語った「死亡遊戯」75年バージョン制作前後に“撮影済み”と言われるノラさまのお蔵入りフッテージの行方がマジで気になりますねえ(ー_ー)!!
様々な試行錯誤を経ながら数々の映像が撮られてはお蔵入りし、また撮られてはお蔵入りを繰り返したと思われる「死亡遊戯」75年バージョン。
その過程で密かに撮影されたと言われる苗可秀の出演シーン、その「最初で最後の真実」の答えを知り得るのは、このリーさんのオフィスでリーさんから渡されたイエロー・ヌンチャクを手に愛くるしい笑顔を見せるノラさまのスチール写真なのかも知れません。いつ何時、そして何時までも「死亡遊戯」の話ができる!!
「死亡遊戯」最初で最後の真実⑦。
さあ、後半に向かってスパートをかけるべく、ここからはいよいよ生前のリーさん自身が撮影した「死亡遊戯」の五重塔内ファイト・シーン、そして新界野外ロケの“最初で最後の真実”に迫っていきたいと思います。
まずは写真からも判るように、五重塔の1階を守る“キックの達人”には韓国合気道の猛者である黄仁植が予定されており、実際に黄師範の名前はリーさんの「死亡遊戯」の設定スケッチにも記載されていました。
五重塔の1階エリアは塔の挑戦者を迎え討つ最初の難関、言わば“防波堤”であり、恐らくは5人の挑戦者(錠前屋の李昆は除く)の内、劉永か黄家達がこのリーさんのキックに勝るとも劣らない強烈な蹴り技を誇る黄仁植にこの1階で倒される事になるのでしょう。
ただ当然ハイテイエン(リーさん)が黄仁植と最終的には対決する事となり、その2人の闘いの隙を見て田俊や解元が塔の2階でターキー木村演じる螳螂拳の達人が守る“豹殿”に駆け上がっていく、そんな展開が描かれたと想像出来ます。
ここで未確認情報ながら、この五重塔の1階におけるハイテイエンvs黄仁植の対決に関して「死亡遊戯」のプロジェクト・リーダーだった林正英が語ったとされる大変興味深い情報があります。
それはこの1階を守る黄仁植の役名(!)はソーチュン・キムで、ハイテイエンはこのキムの猛攻を浴びて殆どの聴覚を失ってしまう(!!)ほどのダメージを負うそうです。つまり、キムを倒してからのハイテイエンは、自分が徐々に聴覚を失いつつある事を狡猾な田俊や単細胞の解元ら他の挑戦者に決して悟られないよう注意しながら、その後も五重塔での闘いを強いられる、という展開になるわけです。
確かに3階以降のフロアでハイテイエンの右の頬に打撃による痣が確認できますし、これがソーチュン・キムによる蹴りのダメージなのかも知れません。
ただ実際に撮影された映像を観ると、ハイテイエンは塔の5階である“未知の恐怖”のフロアでさえジャバールと思い切り舌戦を展開しているので(^。^)、私はこのハイテイエン=難聴者の設定はちょっと厳しいかと思います。
そうは言いながらも、林正英は生前のリーさんに大変信頼されていた武師だった事は事実で、林正英が「死亡遊戯」75年バージョン制作中にリーさんのオリジナル原案にそれこそ執拗に拘り奮闘する余り、そのような一見強引に感じられる設定が生み出されたのかも知れません。
そのリーさん原案プロットに異様(?)なほど忠実な「死亡遊戯」を作ろうと試行錯誤した林正英に対して、同じくリーさんの原案プロットに深い敬意を払いながらも、さらにそこに観客が求めるダイナミックかつハイレベルな“猛龍アクション”を加味する事で自分なりのリーさんへのリスペクトを打ち出し「死亡遊戯」完成を目指したのが林正英から後任アクション監督を引き継いだサモ・ハンでした。
まずサモ・ハンは金泰靖vs王虎の“温室の決闘”を撮ると、続いてリーさんの原案プロットを基に五重塔の1階を想定した金泰靖vs黄仁植戦を撮り、最後に78版「死亡遊戯」のために金泰靖vsボブ・ウォールの“ロッカールームの決闘”を撮り上げます。そう、ブルース・リーが遺した「死亡遊戯」は呉思遠、林正英ら何人かの優れた人材を経て、満を持して参加した“猛龍アクション、最後の継承者”サモ・ハンの尽力により、いよいよ世界中の観客が待ち焦がれた大スクリーンに映し出される瞬間を迎えようとしているのでした!!いつ何時、そして何時までも「死亡遊戯」の話ができる!!
「死亡遊戯」最初で最後の真実⑧。
1972年の9月中旬。香港に到着したダン・イノサントはその足でいきなりリーさんの自宅に連れて行かれます。
そのリーさんの自宅で旅の疲れを癒す間もないイノサントを待っていたのは、ウ・グァンとのカリ・スティックを使って延々と続くトレーニングでした。疲れ切った表情で練武を続けるイノサントを尻目に、リーさんは自宅のベランダから2人をビデオ撮影しながら「ダン、さあ、もう1回だ!オジャ!オジャ!オジャアア!」と、1人ご機嫌で怪鳥音を叫び続けるのでした(^_^;)。
そしてこのイノサントとウ・グァンの練武こそ、リーさんが翌月に新界での野外撮影を予定していた意欲作「死亡遊戯」で五重塔を守る番人たちのデモ映像の予行練武だったのです。
この新界での「死亡遊戯」のデモ映像では、黄仁植が自分を取り囲む戦闘員を豪快な連続廻し蹴りで蹴りまくるシークエンス。ダン・イノサントがウ・グァンをカリ・スティックで撃退するシークエンス(このシーンとリーさん自宅ベランダから撮った映像とカメラ・アングルが同じ点に注目)。そして池漢載が黄仁植&戦闘員を投げ飛ばすシークエンス、とそれぞれ3つのファイト・シーンが撮影されました。
残念ながら、現在この3人のデモ映像は「ブルース・リーの神話」で断片的に観る事が出来るだけで、その全貌は今だに解明されていません。
私は00年にダン・イノサントにインタビューした際に、この「死亡遊戯」の新界野外ロケについて細かく訊いているんですが、イノサント曰く「確か撮影は10月(正確には10月4日)だったと思うけど、あの撮影は私たち塔を守る格闘家のデモンストレーションとして撮ったんだよ。だからブルースと私のファイト・シーンも映像ではなく、スチール用のポーズ写真だけだったと思うよ」との事でした。
恐らくこのイノサントの証言は事実で、写真のように長年に渡り私たちリーさん信者が待ち望んでいたヌンチャクを手にしたリーさんとイノサントが闘う、といったシークエンスが当日現場で映像として撮影された可能性は低いと思います。
ただそれでもリー監督が現場に立ち会い撮影したこの「死亡遊戯」新界野外映像、「死亡遊戯」信者としては何としても観たい!との思いは当たり前(田のクラッカー(^。^))なわけで、ではその映像は現在何処にあるのか?
06年に発掘された「死亡遊戯」のマスタープリントは約110分ほどの映像だと思われますが、それは五重塔内の3つのフロア(“虎殿”の丸太戦映像含む)の撮影済み映像だと思われます。
では新界野外ロケのフィルムは何処に保管されているのか?一つのヒントとして、00年にアートポートが「GOD」を制作する過程で、A社の関係者が当時メディア・アジア社のフィルム倉庫で何本ものフィルム缶をチェックした際に、それら嘉禾公司作品のフィルムの巻末にアンジェラ・マオこと茅瑛のNGフィルムが無造作に収められているのを確認していたそうです。
そこから考えるに、新界野外ロケの撮影済みフィルム(時間にしてもそれほど長時間ではないはずで、恐らくはNG込みでも10分程度)も、きっと「死亡遊戯」関連映像フィルムの巻末に収められたまま、今日まで長い年月を過ごしている可能性が高いと思われます。
ブルース・リー監督が撮影した「死亡遊戯」の映像は、五重塔内の3つのフロアと新界野外ロケ映像が合わさって、初めて“コンプリート”となるのです。
そう、何時の日か必ず、緑深い草原で五重塔の番人たち3人が披露する“達人たちの武闘会”が私たちの眼前に現れる日が来る事を強く信じたいと思います。
いつ何時、そして何時までも「死亡遊戯」の話ができる!!